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吉田町(よしだまち)は神奈川県横浜市中区の町名。伊勢佐木町と野毛町の間の、横浜市の中心街に位置する。住居表示は未実施で〔横浜市中区の町名一覧 横浜市〕、郵便番号は231-0041。横浜市内には、戸塚区にも吉田町が存在する。 == 歴史 == 現在の吉田町を含む一帯は江戸時代初期までは入り江で、1656年(明暦2年)より吉田勘兵衛によって開墾され、のちに吉田新田と呼ばれるようになった。吉田町はその東北端に位置する。1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、東海道から平沼橋、野毛坂、野毛橋(現:都橋)を経て吉田町を通り太田橋(現 吉田橋)を渡って横浜港へ通じる横浜道が設けられた。開港後、浪士らによる外国人襲撃事件が相次ぎ、駐日イギリス総領事のラザフォード・オールコックの直談判を受け幕府は吉田橋ほか6ヶ所に関門を設けた。これ以降、馬車道など関門の内側にあたる地区を関内、関門外側の吉田町や伊勢佐木町などを関外と呼ぶようになった。吉田町は1862年(元治元年)に、元町とともに関外で初めてできた街である〔『吉田町の研究』p11〕。1858年、江戸町奉行は江戸の問屋のうち開港場で商売を希望する者を募り、翌1859年には江戸幕府も開港場への商人の進出を推奨することを広く国民に知らせた。 1873年(明治6年)、区番組制により第一区五番組吉田町となる。1875年に大区小区制施行で吉田町と柳町に分割され第一大区第四小区となったが1878年には郡区町村編制法施行により旧町村が復活し、横浜区吉田町・柳町となった。1880年に茂木惣兵衛により制作された「改正銅版横浜地図全」によると、吉田町と柳町にそれぞれ一丁目と二丁目が設けられている。1889年に市制が施行され、横浜市吉田町・柳町となる。1928年(昭和3年)には地番整理事業にともない丁目が廃され、柳町を合併してほぼ現在の町域となった〔『吉田町の研究』p14-15〕。 1868年(明治元年)に発行された商人の番付表『大港光商君』によると、横浜道沿いに馬車屋と宿屋各2軒、蕎麦屋や寿司屋、汁粉屋など飲食店5軒、川沿いには材木商が営業を始めていた〔『吉田町の研究』p16-17〕。明治中期ごろには、東海道筋の宿場などからの供給と関内に働き口を求めた移住者の需要が集まったことから、古着市場としてもにぎわった〔『吉田町の研究』p30-33〕。 1923年(大正12年)の関東大震災では吉田町の裏通りや伊勢佐木町、馬車道などから火の手が上がり、野毛山方面に通じる都橋や柳橋は焼失した。唯一通行可能であった吉田橋は、横浜公園に避難しようとした住民が殺到し、焼死者や川に落ちて溺死する者が相次ぎ、吉田橋周辺での死者は815人に上った。これは、市内では千人余りの死者を出した山下町に次いで凄惨なものであった〔『吉田町の研究』p71-82〕。1918年には54軒あった商店は一度灰燼に帰したものの震災の翌年には30店舗が営業を再開し、1926年4月には震災前と同じ54店舗まで復帰した〔『吉田町の研究』p87-88〕。しかし、1945年5月29日の横浜大空襲で再び焦土と化した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田町 (横浜市中区)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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